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脳内仕分けと愛




仕分けについて語ろうと思う。なんてね。

いや、社会問題じゃなくてもっと個人的な話です。

僕がしている脳内の仕分けについてです。

それは、例えば写真を撮る時にときどき感じていたことでした。

写真を撮る時って、自分の好きな場所やシーンを撮りますよね。

でもその「ココ!」と思って撮るその理由にときどき自分で「なんか動機が不純な気がする…」ことがあるんです。

明確にはできないんだけど、その不純さとはもしかしたら・・・

「こんな写真撮ってスゴイでしょ?」とか
「これのよさはオレにしかわかんないサ♪」とか
「コレを見せたらアノ人に認められるんじゃないか…」とか

・・・そういうことなんじゃないかなぁと考えています。

でもそんな不純さって誰もが持ってるだろうし(エ?オレだけ?マジ? ^^;)、「だって人間だし〜」ということで仕方ないことかも知れませんよね。
やっぱり、どこかで差をつけたいというか・・・そういう思いからは自由になれない自分があります。

(悟りを開くために生きてるわけでもないんだし。)

その手の気持ちや思いってのは、かなり強く僕の人生を支配しているのかも知れないなと思うのです。

コーヒー屋なんて仕事もどっかでスゴイって言われたい願望とか潜んでそうだし、なにかで評価されないといられない不安のためにいつも言い訳を探してる気がするのです。

では、そんなキュウキュウとした気持ちはそもそもどこで生まれたんだろう?と気になります。

自分の中に「世の中には価値のあるものと価値のないものある」という観念があって、それによって常に価値の振り分けが行われてるような気がするのです。

僕のココロの中に仕分け人がいて、「ハイ、コレは価値あり!コレは価値なし!」といった具合に『脳内仕分け』がずーっと昔からされてたのではないかと。

(それが価値観というものだと云われるとまさにそうなんでしょうけど。)

それで、その仕分け人に云われるがままに、なんとか価値に当てはまるように右往左往してきたのじゃないかなと・・・

今までの人生のすべての選択がその仕分け人のもとに行われていたのだとしたら・・・ それほど恐ろしいことはないんじゃないかとギョッとします。
いったい自分の人生なのかどうかすらよくわかんない感じです。
もしくは、そんな価値判断に背を向けようとする「仕分け人との格闘」が人生だったということもあるかも知れません。(これはオレはすんごくありそうデス。 ^^)

まぁ、どっちにしても自由という言葉からはそうとう遠い感じがします。

でも、だったらどうすりゃいいのさこの私〜♪


そう、で、その仕分けはいつ始まったのかということです。


いつ仕分け人が配属されたのか?

これは親に褒められたり怒られたりした時かも知れないし、学校で先生から○とか×をもらったときかも知れないし、誰かから誰かと比べられた時かも知れない・・・ 失恋したときだったり?

その結果、「自分はダメなんだ・・・orz 」 というふうに思い込み、その価値観を内面化してしまったのでしょうか。

「恥ずかしい」という感覚を覚えたときが、その瞬間だったのも知れません。

☆そういえば、小学校の1年生くらいの記憶で、自分の思いを親に知られることに強い抵抗=恥を感じた記憶が残っています。

「世の中には『価値ある人間』と『価値のない人間』がいるのだ」と信じた瞬間に、ボクの中にカースト制が生まれ、あらゆる存在がそのピラミッドの中に位置づけられるようになったのではないかと思うのです。

そして、それ以来、なんとかそのピラミッドの高みに這い上がり、「価値ある人間」になろうとあたふたとしてたんじゃなかろうか・・・




冷静に考えれば、人にあるのは 「それぞれの運命から来る違い」 だけなはずだ。

人間という種であるという点で、平等というか、そもそもなんの違いもないタダの動物たちなのだろう。

そこに「比べる」という行為と、その違いに対して「善し悪し」や「勝ち負け」見出すという行為が重なって、「価値」という名のおおいなる幻想世界が生まれたんじゃなかろうか。

違いは確かにある。

背の高い人や鼻が曲がっている人や生殖器が大きい人や経済活動にいそしむ人やTVを見ない人や漢字をよく知ってる人やデベソの人や髪の毛がない人や目が見えない人や失業中の人や白人の人や双子の人や信仰の厚い人や昔気質の人や歌うたいの人や保守層の人や寝たきりの人やカメラを集める人やナチュラリストや早老症の人やアスペルガーの人や便秘気味の人やそば好きの人や批判的な人や足フェチの人や猫好きの人や名古屋弁の人や綾波好きの人や宇宙飛行士の人や受験生の人や無期懲役の人や孤独を愛する人や記憶力が人並みはずれてる人やレズビアンの人や埋蔵金を探し続けてる人やパテシエの人やお酒が飲めない人や体臭のある人や・・・ まぁいろいろと。

考えたら、同じ人はいないわけか〜 と上の例を書いてて今更ながらに思いました。

でもその「違い」に「価値」を見た瞬間に、僕らはエデンの園を追放されてしまったのじゃなかろうか。

ちょっと違いのあるただの同じ人間という世界から、上と下のある無限のカースト世界へ。





東日本大震災で大きな津波が何もかもを飲み込むのを見たとき、僕がなんとなく築いていたらしい世界観はたやすく流されてしまった。そんな気がした。

想定外という言葉をよく聞くようになったけれど、僕もそうだった。

まったく想定外の世界をこの目にしたのだ。

大きな悲惨な事故はどこか遠くの国で起こるような気がしてた。

アホみたいにそう思い込んでたのだ。



「世界」・・・はきっと存在しているのだろう。みんながそれぞれ認識している世界。僕が誰かと出会ったり、話したり、あるいは出会わなかったり争ったりしているこの世界。

しかし「世界観」ってどうなんだろ?

そもそも、そんなもの持ってなかったのに。

それは世界で生きるためのひとつの知恵であっても、それ以上ではないだろうに。

(〜なんてこの理屈も世界観???)





あのあと、カメラを持っていても変な感じがした。

町の何処を見ても、その風景や日常や歩いてるひとびとすべてが等しく見えるようで、なにが特別だとかどこが「ココ!」なのか、なんだかポワーンとしてしまった。

「ココ」じゃない場所ってどこ??? って具合に。

結局、素直に「いいな〜」と感じる自分の感覚をうまく感じとれないでいるのでしょう。


車の窓から街を眺めては、ボワーン感覚と前から漠然と考えていた自分の中のことがぼんやりとつながったような気がした。

そして、自分のとらわれていた差別によく似た価値観をあらためて自覚した気がした。

その差別とはほかならぬ僕自身に対して僕自身が抱いていた差別感情だったのだろう。

自分に「価値がない」と判定した瞬間に、僕は世界に対しても価値の有る無しを判定し、すべての人を裁き、その人のひとりである自らを蔑んできたのだ。

「価値がない」と信じた瞬間に終わりのない「価値を手に入れるための旅」が始まったのだろう。



やっぱ差別はいかんね。 (原発もアカンけど…)

ルワンダで起きた大虐殺の歴史の源には、植民地政策で鼻の高さで民族を分類したなんてことがあったんだってね。



この世にあるものの起源のほとんどがこの「価値をめぐる争い」の産物だったとしたなら、もうそろそろやめていいかなと思う。

やめるのが今じゃない理由もないんだし。やめるのが僕たちじゃない理由もないわけだし。



このところの僕の身の周りのもうひとつの隠しテーマである「恋愛」についても思いを巡らせている。

自分を愛することとひとを愛することは、自分もひとの一員であるという点において同義なんだろうなって。

※恋愛とは「自分がひとに愛されるんだ」ということをちゃんと受け入れる作業っていうのかな。

「自分は決して愛されない存在なのだ」ということを信じるかわりに「自分が誰かを愛するように、自分も誰かから愛されてしかるべき存在(別に特別ではない自分)であるらしいゾ!」ってことにしよう。

☆「特別」でありたいという願望が、「特別優秀」はムリっぽいから「特別ダメ」という定義付けにいたったのかもなぁ。ちょっと考えれば自分にとって自分が特別の存在であることは自明なのに。

「自分の判断はいつも必ず誤っている」という大前提が自分の中にきっとあるのだろうね。
「自分の判断はいつも必ず誤っている」というのも「自分の判断」なのにね。←コレ矛盾だね。 ^^

そうなると自己満足っていいもんだなと思う。 というかそれに尽きるんじゃないか?

世界のどこにあるのかもわからないモノサシで計るのではなく、自分の満足がゴール地点。 根拠もない。 平和でいいや。



あー また長々と書いたもんだなぁ。

まぁ、そんな自分もおもしろいナ・・・ (←自己愛の練習 ><; )

おつきあいいただいたみなさまに感謝いたします。 <(_~_)>



ということで脳内仕分けと愛についての考察でした。





☆BGMとしてフランツ・シューベルトのピアノソナタ第21番をどーぞ〜♪
by sakura-blend | 2011-04-05 03:14 | よしなしごと
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