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アトム・ハート・ファーザー


どうしても苦手なモノってのが誰しもあると思う。

モノにかぎらない。人とかできごとであるかも知れない。

ミミズだけはいやとか、こういうことをするヤツだけは断じて許せないいぃぃ〜とか、戦争が怖くて怖くてしょうがないとか、数字が大嫌いとか、◯◯という組織を目の敵にしているとか、あいつだけは死んでも許さんとか、まんぢゅうだけはどうしてもダメ(爆)だとか。


僕は自分に自信のないせいか、許せない人というのはそんなにないのだが(温厚とか思われることすらある 笑)、何かこれだけはダメだ!というものはないかと聞かれると、・・・実は放射性物質がどうにも苦手なのだ。

もちろん放射性物質が得意な人はいないだろう。あたりまえだ。
体によくないし、この一週間で評判はすこぶる悪い。

しかし、よくよく考えてみれば、放射性物質以外にも危険な物質はたくさんあるし、人間の生活を侵すものはほかにもいくらでもあるはずだ。
オレオレ詐欺だって、スピード違反だって、アルコール依存だって、人種差別だってそれぞれに私たちの人生に悪さをしてくるではないか。
そもそも発がん物質なんて星の数ほどあって、放射性物質が特段に危険であるという理屈はいまひとつ信憑性に乏しいのではないか。
もっといえば、人が病に至る理由は物質のせいばかりではない。

事実や正しさはどこかにあるのかも知れないけれど、その前に、自分が「そう」考えるのはなぜなんだろうということがボクの中で膨らんできたのです。

なんでオレはこうも放射性物質が嫌なんだろう? ボクはこの一週間ひとりの時間にこのことを考え続けてきたように思う。

津波による信じられないような被害や避難所での困難を伝えるニュースにこころを痛めながらも、ボクの精神をひどく揺さぶっているのは福島の原発の危機的状況なのだ。
すでに多くが亡くなり、今も生命の危機にさらされている避難民のことがもっと気になってよい筈なのに。


僕の放射性物質嫌悪は、若い頃にハマった農薬/添加物嫌悪に端を発している。 
いわゆる自然食主義系のたどる思想をみごとになぞってきたのである。

学生時代には自炊生活の中で農薬/添加物の排除に徹底し、チェルノブイリ事故以降、北海道に原子力発電所が建設されるに当たっては反原発の旗を振り、そのはずみで大学を中退し、その後は自然食品店や環境雑貨店で働いたりしながらすごしていた。

(※おかげでこの一週間はボクには責め苦だった。地震と津波の惨状に呆然としていたら、福島のニュース。なまじ知識があるだけに毎日のニュースは悪夢のように映った。悪い予想が次々に現実になって行く。眠れないし、食欲まで落ちて、罰ゲームを受けてるような感覚だった。今も続いてるわけだが…)


ひとことでいえば、反汚染物質ライフを送ってほぼ20代を過ごした気がする。


こう書いてしまうとなんともカッコ悪いような恥ずかしいようなトホホ…な感じもするが、まあ事実だからしかたない。




今も自分でやってるコーヒー店のショーケースには有機栽培の豆が多く並んでいるし、店で使う食材にも無添加/無農薬/道産/手作り系のものが多い。

☆ただ、こうしたオーガニック方面に僕の稚拙な文面が迷惑をかけてもいけないので書き添えると、誠実な食材にはやはりよさがあると思う。食べたり飲んだりした時に理屈抜きの満足感が得られる。それはきっと生物としての本能的な感覚だと思う。


話はちょっと変わるが、僕の妻は若かりし日、かなり重症の潔癖性に悩まされていたらしい。
バイ菌がダメなアレだ。
お決まりの手洗い〜アルコール除菌スプレー(お金等の消毒)〜着替え&洗濯などのコースを辿ったそうだ。
おもしろいことにこの強迫観念は時によって、ガスの元栓確認や時間や数字への執着などにも形を変えながら妻を苦しめたそうだ。
生活をともにしていると、今でも端々に彼女の強迫行動の片鱗が見て取れておもしろい。


そんなわかりやすく、非科学的な論理にふりまわされた妻の思い出話を聞きながら、ふと我が身に目を戻すと、そこには「科学的な論理に基づいた上でふりまわされているオレ」の姿があった。

人の振り見て・・・とはこのことだ。

男は論理に強い。しかしそれは論理への弱さと同義なのだ。

論理に立脚した強迫性障害。 ボクの行動原理はコレかも知れない。

農薬は体によくない。放射性物質も。これはほんとうにそうだと思う。そしてほとんど事実だろう。

しかし、無農薬野菜や無添加食品に強く指向する人間に共通する「ヤバさ」みたいなものをみなさんも感じられたことがあるだろう。
ボクは自分がそうだったから(いまもかなりそうだが)よくわかる。
かつて「アノ人ちょっとやばい・・・>д<」という目で見られた経験もあるし・・・ ^^

なぜその指向がヤバい感じがするのか? それはきっと「怒り」に似ているからじゃないだろうか。
もしくは、そこに選民思想にも似た排他性を感じとるからかも知れない。


「食品は食品であることには違いないが、ときに食品ではない。」

禅問答ではないが、宗教と食品の関係を思い起こせばわかっていただけるだろう。
いろいろな宗教が特定の食品を禁止・制限したり、食事の摂り方にルールをもうけたりしている。
食べたものはその人の体になることから、その人のありように関わる、そういった感覚が宗教には強くあるのだろう。
このへんのことは、きっと誰かがうまく詳しく研究してるだろう。

「食品や空気や水を目に見えない物質で汚染される」という事象は、われわれ誰しもに嫌な感じを与える。
これは正しい反応だ。
生命体としてまっとうなことだろう。

だがそこに非常に強く反応し、ふつう(平均)以上の執着を示す場合、そこにはやはり個人のバイアス(偏重)が関係している。

そのバイアスとはなにか?

ボクが個人の経験則で偏見に基づいて云えば、そこには「家族関係」の問題が絡んでいることが多いと思う。

なんで食の問題に家族が出てくるの??? 

それは食と愛がメタファーの世界で同義だからだ。

異論もありましょうが、ひとりごとだと思って許してください。 <(_~_)>

簡単な説明例として「摂食障害」を挙げる非も許して欲しい。

体の栄養=「食」と心の栄養=「愛」。

愛(精神的充足)の不足を量的に食で補うと過食が起こる。(反転すると食べられなくなる。)

そして、それを質的に解決しようとする試みが自然食(汚れなき愛)なのではないだろうか。

過食や拒食は不健全に結びつきやすく、どこかで破綻して解決に向かう傾向にあるが、自然食の場合は体は健全な方向に向かうのでそのぶん問題点自体は見過ごされがちだ。

食はいわば思想と不可分、もしくはそのものですらあるのじゃないかと思う。

食になどいっさい興味がない…というのも反転した同義だろう。
美食というのもその一分野だろう。(『美味しんぼ』でもまさにそのことが描かれていたと思う。)


(う〜ん、なんか言い過ぎてる気がするなぁ。 まいいや。 ここんとこ辛いし。 自分に許す。)


人は世界の中でメタファーを通じて生きて行くものなのかも知れない。

汚染に反応する人間が騒ぎ立てて、世界の破綻を防ぐ。そんなものなのかな〜とも思う。

僕たちはこの世界という場所にそういった「考え」を持ち寄り、ぶつけあっているのか…も知れない。

あるものは経済を語り、あるものは哲学を追究し、あるものは原発を作り、あるものは声高に危険を叫ぶ。

人間の社会とは、そういうものなのかも知れない。

でもボクはこの一週間、「そういうもの」の先に行きたい気がし始めている。

正しいかどうかはもういい。

誰かを非難することが目的ではない。

起きたことは受け入れ、最善を為そう。




※ちなみにバイアスたっぷりのボクとしては、放射性物質は「とにかくできうるかぎり避ける」のが吉だと思います。安全論を信じたい気持ちが働いて仕方ないけれど、やはり慎重になる必要があります。安全論の論調にはかつて語られてきた「日本の原発は大丈夫」ということばと同じ響きがあるように思えてしかたありません。
とりあえず、あらゆる方法で汚染から遠ざかるべきです。
(ボクのことばが間違いであることを祈ります。なんだやっぱりなんともないじゃねぇか〜!と罵られる日が一日も早く来るのを望みます。)
特に子供は被爆への感受性は大人よりはるかに敏感です。彼らは僕たち大人より何倍も原子炉に近いのです。そして彼らにはまだ選ぶための知識も判断力も権限もありません。
大人は子供の何倍も強いけれど、やはり統計学的に考えると確実によくない影響があります。

※忘れてはならないのは、どんな影響があったとしてもその因果関係は証明することなどまず出来ないということです。わたしたちは確率論的に生きているわけではありません。何万分の一だけガンになるのではないのです。その確立に当たった人はひとりで病み、苦しむでしょう。

「自分のことを大切に考えることを避けようとする考え方」も避けた方がよいと思うのです。

誰もが大切であり、そのひとりである自分も大切です。



〜うーん、なんか読み返してもやはり元反原発バイアスを我ながら感じる論調だ。
ニュースの安全論と適当にブレンドすると、よい着地点に行くのではないかと思います。
ブレンド用の素材としてご利用いただければと。

もひとつ。

消費者・生産者、どちらにとってもつらい時間がこれからはじまります。
食品の汚染はこれから始まり、明らかになってくるでしょう。
きっと認識・考えかたの相違も出てきます。
不安から言い争いも起こるかも知れません。

そして、こういったことを日々考えることはあまりにつらく、考えたくなくなります。

思い悩むこと自体、被曝並みにからだにもよくないことですしね。

そして、考えないためにどこかであきらめや耳をふさぐことに頼りたくなります。

でも、大切な部分を見据えて先に向かえたらと思うのです。


自分の直面していることは乗り越えられることだ、自分のなすことは目に見えなくとも確実に効果をあげて行くのだということを忘れないでいきましょう。





さて、この文章の論旨はほんとうは原発や放射性物質のことではないということはおわかりいただけたでしょうか?


ボク自身の理解がまだ固まっていないのでどうも…なんですが

強いて言えば「その先にすすもう」なのかな。


あまり元気の出ること言えなくてすみません。


こんな文面でも、もしかしたらなにかしらの一助となるかも知れないと思いあがり、書き連ねました。 

(いや自分のためかな?)
by sakura-blend | 2011-03-20 02:13 | よしなしごと
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