モーツァルトの交響曲を聴けば、モーツァルトがそれを作ったその瞬間に彼のこころのなかに揺らいだそのさざ波が、時を超えて伝わってくる。
あらゆる音楽に絵に物語にそんなさざ波があるのだろう。
(ひとのあらゆるふるまいや、あるいはtwitterのつぶやきひとつにすら)
それを伝えようと、残そうと、ひとはものを創るのか?
DNAを残そうと岩場で角を突き合わせるヤギたちのように、ナニカに駆られて・・・ 生きた証のようなもの?
(もちろんDNAのことなどヤギは考えてないわけだが、いわばそれと同様の無意識で)
そんなさざ波が世界には満ちていて・・・
(すべてがデジタル信号になって世界を行き来してるウェブみたいに)
それが届いて、またあらたなさざ波を誘って、あるいは打ち消し合って、あるいは大きなうねりになって、ときにはフォークダンスみたいにちいさく手をとりあって、かぎりなく消えることなく・・・
きっといちまいの写真やこんな言葉の中にさえ、ぼくのこころのさざ波がかすかにまぎれて、世界に散らばっていくんだろう。
そんな無数のさざ波が打ち寄せる浜辺を、ぼくらは歩いているということなんだろう。
目を閉じてみよう。
さざ波のかすかな音に耳を傾けてみよう。